街は生きている

タイトルはドラクエ5の有名なbgmの曲名からです

人間賛歌

大学院は自分の建築を考える、建築家としての態度を若いなりにも定める所だと思ってたけど、甘い。甘すぎる。

どうやらそんなことを言ってると近い将来食ってけない社会になりそうで危ないなと思ってきた。(自分自身の問題なので一般的ではないとおもいます。)

 

そんなカッコつけのイケイケのキラキラのザ・アーキテクトっぽくドロっとモノ作ってさらっと論じます!みたいな感じだと危ないです。

 

今から、いかにしてこのご時世で建築を仕事にできるかを考えないといけない気がするし、(もっと早くから着手すべきだった)

ないしは建築を仕事にするそのこと自体の価値を見極めないとダメな気がするんです。

 

「気高く飢えよ」とはこのことですか。

 

ダイヤモンドは永遠に

2年ダブってどっぷり6年在籍した大学だから思い入れもあるし、まぁいろいろ考えさせられるわけだ。

 

願書の封筒が1番楽しそうという理由で入学した割には、そこそこは充実した中身だった気もする。いや、そうじゃない気もする。

 

サークルに所属してたわけでもないし、バイトもまあそこそこくらい。

一歩引いた大学生活だったような、そうじゃないような。

それでも、気の合う連中といる時はすごく楽しかったし無茶もしたし、青年のノリと勢いではしゃぎ倒すみたいなことが今後少なくなって行くのは感慨深いものがある。

 

そういえばいつも一緒にいた仲間の1人が、来夏結婚式を挙げるようで。めでたい。

彼は入学したての頃、慣れないアルコールで暴れまわっていろいろ迷惑をかけていたが、嫁を貰うとは感慨深いものがある。

 

不覚にも感慨深いものがある、を2連続でスワイプしてしまったがまさに、思い返すと感慨深いものがある、はきっと僕の中で共通しているんだろう。

 

腹立ったことも、悲しかったことも、嬉しかったことも全てに感慨深いものがある。思考停止ではあるけど、適当に思い出にしてしまって、過去に影響を受けたくないという態度の表れなのかもしれない。まぁくさいものには蓋をするのが一番ですから。

思い出至上主義みたいなタイプ1番苦手だと明言していたけど、実は自分も都合よく思い出という言葉を使っていることに最後に気付くとは皮肉である。

思い出とは本当に都合のいい言葉ですわ。

自分も思い出作りに必死な愚かな青年だったのかもしれない笑

旅行写真は撮らないけど!

 

さて、冒頭で6年通った大学だ、と言いましたが、大学院に進学することにしたのでもう2年いすわることになりました。

 

今から5時間後は大学の卒業式が予定されている。

 

まぁ行かないけど!

 

 

囚人番号 FE40536

だいたい70年生きるとしてあと50年くらい。

 

120分はちょうど良い時間な気がする。

 

そこで人生を120分の自伝的映画にして計算すると今41分が経過中。

 

こう喩えてしまうと、今世紀最大の麻薬王もお散歩中のワンちゃんも、今僕の目の前で粛粛と注文を取っているサンマルクカフェのアルバイトも結末を死で迎えてしまう。

 

高校3年間は5分くらい。

うじうじ決断に悩んだ一ヶ月は8秒くらい。

(計算は苦手なので間違っていてもこの際気にしない)

 

仏教では生きる苦しみではなく生まれる苦しみと説いているらしい(うろ覚え)

 

残り79分で心がハッとする瞬間はあと何回あるんだろうか。

たくさんあるといいなぁ。

 

ところでなぜ生まれて来たのか。。

 

これ以上は考えるのもバカらしいので

目の前のできることをとりあえず頑張ることにした。

 

 

何も失わずに手に入れたものなどぉくれてやるぅぅぅぅぅぅ

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専門性を高める活動に従事する(やっぱり重要)よりも、

いろんな専門家や頭のいい人に会いに行くこと、

知識やノウハウを7割くらいで雑食する方が、向いているとさえ感じることがある。

というより、今はそういう時期なんじゃないかと思っている。

 

もとより、複雑な事象を読み解く、そして物事を整理、反芻することがすごく苦手で、

あっさり二元論で纏めてしまうトンデモ野郎というアホ丸出しを抜け出したい。

釣りは男の必修科目である

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随分長いこと空き家だった以前はふとんやさんの改修に関わることになった。

間口が広く、まちに対しての構えが大らかで、ふとんやさんであった商店のころの面影が残っている。

大掃除をして寝泊まりができるようになったものの、まだまだ雪国の寒さを堪えての日々を送っている。暖房器具の導入は急務である。

 

誤解を恐れずに言うならば、建築とは風景であると言いたい。

水の流れる風景の暮らし、、、

山に囲まれた風景の暮らし、、、

など挙げればキリがないが、それを具体化するのが建築のできることであると思っている。

建築とは風景であり、もともと機能はないのだ。発見的に機能は湧いてくるものだと思いたい。

さて、この空き家はどんな風景となりうるのだろうか。

トゥーンワールドで〜す。

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夕陽は西から差し込み、大阪湾に反射した。

分厚い雲が都市を威嚇する。

そして大阪に大きな影をつくる。

六甲山はこの時間は見えない。

光は、雲と大地の間を刺し存在を顕示する。

ここに立つと、大阪と大阪がつくった空の間を浮遊しているような気さえする。

 

写真は生駒山上から西を見た風景。

この辺りの風景のシンボル。背景。

かつての難波と大和の縁と縁にある境界、多くの先人が歌を詠み、多くの重要な文化が芽生えた場所。

そして今は電波の中心地。

小さい大阪平野からは、この山がどこからでも見える。

 

君があたり 見つつを居らむ 生駒山

雲な隠しそ 雨は降るとも

 

時代は変われど、生駒山と人間の関係は今も変わってない気がする。スマホがポケットの中で様々な情報を受信するものだから、自然への感度が鈍っただけみたいね。

 

きれい!すごい!ハイ、チーズ!

記念なんてクソくらえ。詩をよめ。

Medellín

 

10年前ちょうど高校受験の時か。

旅に出るという格好の付け方を何かのきっかけで偶然覚えた。

 

旅に出て学ぶことは多い。

不安を連想する。

不安は時に、青年の感情を煽り、思いを募らせ、創造的にあるいは破壊的に彼らの両手を育む、青春の炎を燃やす手続きとなるだろう。

 

それは行く先々で娘さんに恋に落ちる車寅次郎であったり、コンパスと地図を頼りに西へ西へ進む沢木耕太郎であったり、

犬橇で北極点に到達した植村直己の描写から伺える。

 

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写真はある島へ向かう途中で出会った、

何かの養殖のための棒が、水面に林立する風景。

優れたFoodscapeは食や農、漁など、しぜん"山河大地"の中に人間の生業の風景を創出する自然"人為的でないありのままの姿"を育む。

(自然≠しぜん)