bizarre love triangle
奥に行くとぐぐっと狭めて遠近感。
ほとんど使われることはなかったトイレ。
手入れが行き届いていることを象徴とするトイレ。
風景のレイヤー"縮景"
重層的で、面的で、、
手前から奥に道が現れる。気がする。
森の小道をあるく。
フレーム
手すりと柱がこの風景の1番手前。風景にさわるとはこのことなのだろうか。風景のディテール
桂離宮でした
胎蔵界曼荼羅
低予算で、ほぼ一年一本ペースで自由に黙々と映画を取り続けてきた映画監督、ウディアレン
彼にとって作品は常に途上にあるのだそうで。
「どれかが特別扱いされるのは嫌なんだ。」
外からの批評よりも、自分が楽しく映画を取り続けているかどうかが大事。
彼にとって映画を撮ることは、
生活の一部なのか、生活とは分けて考えているのだろうか。OOM
生活の延長にあるものなのだろうか。OOM
寝ても覚めても映画のことばかり考えてるんだろうか。OOM
映画こそ人生だ!!これは少し言い過ぎか。
彼にとって映画とは?OOM
ジュディ・オング
遠くのものをみると目が良くなる。
そう言われて育った。
家のベランダから両手足を使って手すりによじ登り、まだ見えない景色を得ようとした。
遠くには斜面がぎゅーっと一箇所に集まって山頂をなしている。眼下には家々。どうやら僕が住んでいたところは少し高いところにあったらしい。
山頂には電波塔が建っていた。電波塔は夜になると大きな赤い目玉を1つ、小さい目玉を1つ光らせる。夜、目を覚ますと目玉が無機質にこちらを覗き込んでいる。
これが僕の原風景なのだろう。
目は良かった。
そして、高校受験の慣れない勉強が視力を奪う。
しかし、視力ではない。たまには眼鏡を外して生活するのも悪くない。
今また遠くのものを見ようとしている。
僕にとって遠くのものとは、好奇心であり恐怖であり、憧れの象徴なのかもしれない。
何を遠くに設定するか。それが僕の創造の原点なのかもしれない。
遠くのものを見ようとする。
アメリカを見た。インドを見た。そして南米大陸を見た。次は、、
Everything is good and ブラウンな感じ
言語によるコミュニケーションがなくても
日本人は場を察知し、感情を読み取るいわゆる空気読むって能力が長けているのは海外旅行を経験してわかった。
そういえばポケモンは鳴き声で感情表現をする生き物だし、(ニャースは例外として)
日本語を話す者同士ではなくとも成立するヘンテコなコミュニケーションを疑ったことはないなと思った。
言語によるコミュニケーション無くして
相手を理解する日本の文化をピカチュウに気づかされたわけだけど、
それにしてもピカチュウの共感力もまた非凡。
あまり上手くは言えないけれど、
日本のものづくりの本当に評価されるべきところは
"和風のデザイン"や"使いやすさ"なんかではなくて、
日本人のもつ文化的な共感力をカタチにしたその制作者なりデザイナーの精神性あるのではないかと思う。
青年は荒野をめざす
けんちくは様々なことに制約をうけるようです。
考えたいことと学びたいことは非常に多く、
分野を飛び越えていろんな角度から魔がさしてきます。
その一方で、
ものづくりの楽しさに惹かれていくうちに
ものづくりのぬかるみに足をまんまと取られている気もします。
デザインや設計が上手い、それだけで本当に良いのか。
図面をひくことだけが建築家なのか。
連中の評価をもらって報われるのか。
近づけば近づくほど遠ざかる砂漠の急勾配を走っているようです。
虚空だと思います。
いま多分ものづくりの魔との戦いに立ち向かう時がきています。
最後の最後に知識も知恵も経験も全て捨てる覚悟はあるか。
本当に良いものを作るという強い意思と執着心があるか。
暗闇はまだまだ長く続くだろう。